日本一の大親分が(挙母・豊田市)いた

 第2回    川島五郎(羽田 浚)伝説
 日本一の大親分が挙母(豊田市)にいた。その名前は川島五郎(瀬戸一家六代目)という。そのことを書いた本がある。次ぎに紹介しょう。

 …畔柳晋二(注)が「君(福岡寿一・豊田市宮口出身)、挙母の川島五郎を知っているだろう?」というから「あまり知らない」と答えると「何だい、モグリだな」と笑った。「実は、この間、五郎に会ってきたんだよ。彼は大変な親分で『瀬戸一家』なんていうからせいぜい『東海の親分』くらいにしか思わなかったが、ほんとうは小金井小次郎以上の大親分なんだぜ」と、しきりに感心していた。

 …一家(瀬戸一家)のナワバリの広いこと、子分の数の多いことでは川島五郎は「東海」の顔役どころか、おそらく全国一の大親分…関根組や尾津組など足元にも及ばない日本一といわれている小金井一家(小金井小次郎のこと)にしてからが、親分の下に独立した貸元は四〜五十人…川島一家の全盛期に代貸は六十名、子分も二千人…すごい。
○ 福岡寿一著『続 遠い足音』1977年 P34〜35
      豊田市立図書館蔵

                            福岡寿一は、詳細は畔柳晋二著「川島五郎伝」『月刊中京』(昭和26年9月号)を読んでいただくとして、…と書いているので、福岡寿一の資料のソースは、『月刊中京』だろう。この『月刊中京』をさがしたが、岡崎市立図書館、岡崎市博物館にもなかった。畔柳晋二――昭和初期のジャーナリスト、社会運動家。明治44年(1911)岡崎市身。戦後、中京新聞に入社、報道部長を経て編集局次長。同社解散後、『月刊中京』に。気骨あるジャーナリストとしての評価は高い。    (文責 渡久地政司)

  目次
第1章 川島親分と昭和劇場
  資料 『アート座のあゆみ』
     平成8年12月 発行
        豊田市中央図書館蔵
   同書P9「川島親分と昭和劇場」
川島五郎伝説(1) 川島五郎と本多鋼治の出会い
    『最後の人―本多鋼治』
          福岡寿一編著
   昭和40年12月 発行
             豊田市中央図書館蔵
  同書P26~27を全文引用して解説。
  以上2012年8月9日掲載 
      (本紙ホームページに掲載中)


第2回  2012年11月1日掲載

 第2章 尾崎士郎と川島五郎…『人生劇場―望郷篇』、作品と映画。その出会い…


   第3回  新年号(予定)
第3章 川島五郎―畔柳晋二、福岡寿一資料
  川島五郎伝説(2) 三ケ山殉国七士廟
  川島五郎伝説(3) 昭和劇場と前進座
第4回  2013年春(予定)
第4章 川島五郎碑とお墓…   豊田市と瀬戸市探索
  川島五郎伝説(4) 未定
第5回  2013年春(予定)
  終章  最後の任侠親分…(未定)

  資料提供、
● 尾崎士郎記念館―西尾市吉良町萩原大道通18-1 吉良図書館となり。連絡先―西尾市亀沢町480(西尾市岩瀬文庫内)教育委員会文化振興課
● 写真提供―川島五郎、石碑  関係者




第2章 
 

尾崎士郎著『人生劇場 望郷篇』足助治三郎と川島五郎



参考資料 『人生劇場・望郷篇』
新潮社文庫 昭和51年3月20日33刷
資料提供―― 尾崎士郎記念館  西尾市教育委員会

「望郷篇」
 主として西三河南部がとりあげられている
 時期  昭和21年から数年間
 発刊  『オール読物』昭和26年12月から27年3月に掲載
単行本  初版 昭和27年7月15日

火野葦平「解説」P194を引用
「望郷篇」はその敗戦直後の世相を活写している……「望郷篇」は「日本任侠史」研究資料というところであろうか。
 
  ・ 人生劇場・望郷篇は、火野葦平の指摘のように、@昭和21年から24年ころの日本の世相を見事な筆さばきで描いている。
A「日本任侠史」の中でも戦後の状況をかなりくわしく書いている。

 尾崎士郎が挙母町の川島五郎宅を訪問した時期

・ 『オール読物』掲載時期から尾崎士郎が川島五郎宅を訪問したのは、昭和26年春から夏にかけて、と推理。
 訪問した、という具体的証拠は見つかっていないが、関係者は、「尾崎士郎に資料を貸したが、戻っていない」という具体的なものもある。
 滞在日数は、先の『アート座のあゆみ―川島親分と昭和劇場』では、約10日間と記載されているが、尾崎士郎は、売れっ子作家なので、長期滞在は出来なかった?

尾崎士郎著『人生劇場 望郷篇』(以下「望郷篇」)を引用して検討

・ 目次「美しい町・秋の夜長・比翼塚・春眠・狸山麓・黒幕・花火」
目次は7つの小題からなっている。
「美しい町」は、文中では『揚羽町』を指している。揚羽とは、「挙母(ころも)」の『挙』の意味「あげる」から尾崎士郎の造語であろう。
そして、挙母っ子は喜ぶだろうが、尾崎士郎は、挙母の町をとりまく景色だけでなく、町民のこころ意気を総称して「美しい町」としている。
「こころ意気」は、目次「秋の夜長」p39〜53で、足助一家の一代危機では、町民こぞって「揚羽劇場=昭和劇場」に竹ヤリ鉢巻で集結した。
この集結模様を目撃者がいた。
川合幹夫さん(豊田市久保町・昭和4年1月1日生まれ)「住まいが昭和劇場の隣だった。
竹ヤリ鉢巻姿の男たちが劇場の路地を警備していたので、何事がおこったのか、と驚いた」。

 揚羽町と「足助一家」

1 P8…段戸山麓にある揚羽町は、森と丘にかこまれたクリーク多い水にめぐまれた町である。
此処に「足助一家」と名乗る任侠の徒が蟠?したのは清水一門のなお勢威を張っていた頃である。「足助一家」は吉良一門につながる。

2 P8…彼等の生活環境が山にかこまれた三河の片隅に占められていて、言わば地の利を得るにめぐまれていたということになるかも知れぬが、もう1つの理由は、次郎長さかんなりし日に吉良領一帯に男をみがく寺津の間之助が、吉良一家の総元締めになってか
3 P8〜9…このような環境と雰囲気の中で「足助一家」は、愛知、岐阜、三重三県、これを近頃の言葉でいうと中部日本に散在する吉良一門の中心となって…
4 P8〜9…足助治三郎が逸り立つ一門をおさえて、町のボスにならず、町会議員なもならず、六十を過ぎる今日まで、「恥をしれ」「面を守れ」、―と唯一途に男の道を磨いてきたことに由来する… 

・ 1〜4を検討
「川島五郎と瀬戸一家」の直接的資料がほとんどない中で、ここの記述は、間接・類推資料としては、貴重なものといえる。
a 「足助一家」は、吉良一門につながる。
b 吉良一門を寺津間之助が総元締め…。
この aとb が繋がるのかどうか。この文章からはわからない。次ぎの 5項 と 6項 で改めて検討。

「足助一家」から川島五郎(瀬戸一家)を推理

5 p23… 大正末年、若かりし日の. 治三郎が、西三河一帯に根をおろした鍋武一門に勝負を挑み、鮮血淋漓たる中に男の意地を立てとおしたときには、5年間の刑期を終えて帰ってくる彼のために、町民たちは互い金を出しあって小さな劇場をつくってやった。
・ 大正末期、治三郎(川島五郎)が瀬戸一家の一員として、西三河に根をおろしていた「鍋武一門」に勝負を挑み、鮮血たる中に…は、検討する価値はありそうだ。この鍋武一門に当たる博徒一門について、調べてみたが、今のところない。しかし、わたしの調査不足であって、寺津一家の血を引く(名跡)を継いでいた博徒一門は、存在していて、川島五郎は鮮血淋漓たる中で…、尾崎士郎は書いているような抗争があり、瀬戸一家・川島五郎が勝利して西三河を縄張りに吸収しおさめた、ことは推理できる。 確かな記録では、川島五郎は、5年の刑期を終え、大正末に出獄している。
となると、この鮮血たる抗争は大正中期と推理できる。 5年の刑期を終え、の時期が大正末期に、揚羽町民=挙母町民が小さな劇場をつくってやった、について。昭和劇場は元の名称は「大正劇場」だった。この大正劇場は、昭和20年代初期まで存在し、最後の社長は梅田辰五郎(戦前の高橋村村長、本多鋼治の盟友)で、侠客ではなかったが、川島五郎とは親しい人物だったらしい。昭和21〜23年ころ、大正劇場は昭和劇場と改名、劇場の所有・経営権は、川島興業社に移った。確かな資料によると、川島五郎は、大正末年と昭和18年に監獄から出所している。大正末年出所で「大正劇場」、昭和18年出所で「昭和劇場」という2つ解釈できるが、2つとも「あり」と推理をしたい。
6 p25 寺津の間之助の血をひいた足助一家

・寺津港は、かつてのにぎわいはないが、小さい漁港として現在も存在している。
 西尾市の西部、知多湾、矢作川河口付近にある漁港。
ここに江戸末期にばくち打ち「寺津の間之助」親分はいた。
清水の次郎長や吉良仁吉も一目置いたといわれている。
インターネットには、「寺津ノ間之助, 寺津一家二代目 幕末侠客」とあった。
この寺津一家の血をひいた足助一家と瀬戸一家・川島五郎とに接点はまずない。
広義に、西三河の侠客の伝統、と解釈すれば、可というところか。

 足助治三郎から川島五郎の容貌・容姿を推理

7 p29… 足助治三郎は60をすぎてもまだ隆々ともりあがっている肩の筋肉をすりあげた。
尾崎士郎が川島五郎を取材したのは、昭和25年、その時の五郎の容姿・容貌とするならば、 昭和36年1月逝去 72歳 から10歳引いたとすれば60歳すぎ。
そのころ接した容貌・容姿を「人生劇場 望郷篇」の昭和22年〜24年ころに移行イメージして採用した、と推理できる。


 足助一家の武装から「瀬戸一家」が昭和劇場に立てこもりを推理

8 P34 …今度は積極的に三県(愛知・岐阜・三重)にまたがる一門の同勢が狩りあつめらた。
…近世日本侠客史の最後を飾る大規模な人寄せであろう。
…堅気の人にご迷惑をかけては相すまぬ…彼は揚羽(挙母)町の人たちにこの計画が漏れることを極端に警戒した

9 p34… 足助一家は揚羽町の航空隊が解体したとき、そこにあった武器をゆずりうけたそうですが、大砲と機関銃はどのくらいお持ちですか…

「望郷篇」では、警察官がこの質問を足助一家にしている。
この揚羽町の航空隊とは、伊保原にあった海軍航空隊を推定。
「大砲と機関銃」など、いくら敗戦国の軍隊でも、武器弾薬を無秩序に民間に放出することは、まず考えられない。
ただ、昭和22年の遊郭での殺人事件の武器は、軽機関銃であった、と聞いた人もいる。
伝説は、得てして、尾ひれが付いて、面白可笑しく巨大化する例といえよう。
戦後の混乱期、瀬戸一家は大砲・機関銃で武装していた、という伝説が存在していても不思議ではない。(新年号に続く)


映画のストーリ(要旨)


昭和21年、青成瓢吉の故郷三州吉良港には、昔の任侠の気ッ腑は失われていた。
吉良常は亡く、足助一家も無いに等しくYS連盟が、暴利を漁り、暴力を握っていた。
八幡宮の祭の日、村娘加代を谷口、赤井、満川達が連盟の暴力から救った事から、不良勢力に対する抗争が起こった。
谷口が叩きのめされたので、赤井と満川が連盟員を不意討ちにした。
…足助親分に助けを求めた。
連盟は足助一家に果し状を送った。
…連盟がそれを暴力主義として警察に訴えた為に、苦境に追い込められた。
…二人は瓢吉を尋ねた。
足助一家は吉良の仁吉の比翼塚を建てるために勢揃いした、という口実…命を賭けた宮川の努力の下に連盟は敗れさった。
…吉良を愛する瓢吉、足助…


 事実と小説、また映画は異なる。小説と映画は、フィクションだが、作家尾崎士郎が川島五郎(羽田浚)を取材、作品とした。
 事実と関連(推定)
 青成瓢吉=尾崎士郎、足助一家=瀬戸一家、YS連盟=在日朝鮮人連盟、足助親分=川島五郎、抗争事件=観月境(遊郭)殺人事件。
 抗争現場は、挙母(豊田市)から30`も離れ、まさにフィクション。映画に、足助親分がアメリカ軍払い下げの軍用バイク(インデアン)にまたがり疾走する雄姿、これは事実。