第3回 川島五郎(羽田 浚)伝説






 第3回    川島五郎(羽田 浚)伝説

 日本一の大親分が挙母(豊田市)にいた。その名前は川島五郎(瀬戸一家六代目)という。そのことを書いた本がある。次ぎに紹介しょう。

 …畔柳晋二(注)が「君(福岡寿一・豊田市宮口出身)、挙母の川島五郎を知っているだろう?」というから「あまり知らない」と答えると「何だい、モグリだな」と笑った。「実は、この間、五郎に会ってきたんだよ(昭和26年中頃)。彼は大変な親分で『瀬戸一家』なんていうからせいぜい『東海の親分』くらいにしか思わなかったが、ほんとうは小金井小次郎以上の大親分なんだぜ」と、しきりに感心していた。…一家(瀬戸一家)のナワバリの広いこと、子分の数の多いことでは川島五郎は「東海」の顔役どころか、おそらく全国一の大親分…関根組や尾津組など足元にも及ばない日本一といわれている小金井一家(小金井小次郎のこと)にしてからが、親分の下に独立した貸元は四〜五十人…川島一家の全盛期に代貸は六十名、子分も二千人…すごい。
○ 福岡寿一著『続 遠い足音』1977年 P34〜35
            豊田市立図書館蔵

                            福岡寿一は、詳細は畔柳晋二著「川島五郎伝」『月刊中京』(昭和26年9月号)を読んでいただくとして…と書いているので、福岡寿一の資料のソースは、『月刊中京』だろう。この『月刊中京』は、国立国会図書館や県内の図書館、大学図書館でも未発見。
(注)畔柳晋二――昭和初期のジャーナリスト、社会運動家。明治44年(1911)岡崎市身。戦後、中京新聞に入社、報道部長を経て編集局次長。同社解散後、『月刊中京』に。気骨あるジャーナリストとしての評価は高い。

 ここで、わたし(渡久地政司)の資料ソースを公開したい。読者に誤り、説明不足などをご指摘いただき、読者とともにこのコーナーを書いていきたいからだ。
資料
1 猪野健治著『(1)親分・(2)任侠』(実録・日本侠客伝) 双葉社
2 藤田五郎著『実録・東海の親分衆』 680円 1975(昭和50)年11月10日  青樹社
3 畔柳晋二 『月刊中京』1954(昭和26)年9月号、わが街のボス歴伝「川島五郎伝」  (未発見)
4 福岡寿一著『続・遠い足音』 「ヒロセと人斬り五郎」 1977(昭和52)年 
  5 福岡寿一著『歳月迅し』無用の石―川島五郎伝  1985(昭和60)年
6 福岡寿一著『最後の人 本多鋼治』「本多鋼治と川島五郎の出会い」19●●(昭和●●)年

7 尾崎士郎著 『人生劇場 望郷篇』1976(昭和51)年 33刷り 
8 映画・人生劇場/望郷篇 三州吉良港1954
(和29)年・東映 萩原遼監督 宇野重吉/佐野周二
/ 久慈あさみ/花沢徳衛ら
9 (株) 『アート座のあゆみ』「川島親分と昭和劇場」 1996(平成8)年11月10日 
    10 インターネツト   瀬戸一家・墓など
11 まぼろしの資料  『川島五郎一代記』
12 愛知県警資料   愛知県公文書館にあり
13 川島五郎(羽田浚)死亡記事  『加茂タイムス』1961(昭和36)年1月29日号
【説明】
1〜13について
                1、2、7は、インターネット「アマゾン古書」で格安で入手可能。
3未確認。福岡寿一記事ソースとなっている。
8「映画」もインターネットで1000円以内で観ることが可能。
4、5、6、7、9、13は、豊田市中央図書館で閲覧できる。
11は、わたしは存在しない、と推理。
12は、明治・大正時代資料は公開されているが昭和は非公開。調査中。

     【監修:羽田道俊/文責:渡久地政司】

猪野健治著『任侠実録・日本侠客伝』にみる川島五郎




福岡寿一の取材資料源は、猪野健治著『任侠実録・日本侠客伝』、藤田五郎著『実録・東海の親分衆』、福岡寿一編著『最後の人』、畔柳晋二著『月刊中京(昭和26年9月号)「川島五郎伝」』がほとんどのようだ。このうち『最後の人』は昨年8月6日号で掲載した。畔柳晋二著『月刊中京』は現在のところ未発見。今回、猪野健治著について、紹介を兼ねて解説したい。

猪野健治著『任侠…』は、1970年3月双葉社から刊行された。賭博系親分10名のうちの1名で題名は、「明治生まれの残侠―(瀬戸一家)川島五郎」となっていて、文庫本でp49〜58まで。
小見出しは4項、「@獄中で斬る」「A召し上げ女房とセーラー服」「B猛者ぞろいの”血統”」「C不義に激昂した親分」となっている。文章は客観的に取材した事項を整理して記述している。川島五郎の恥部(暗部)にも触れており、瀬戸一家の中枢からの取材ではないよだ。
小見出し@〜Cまでの要旨を引用して検討してみる。
@  「獄中で斬る」、では、川島五郎は、監獄工場で一家の宿敵の頭を工場用鋏で襲撃し、大ケガをさせている。このエピソードは他資料にもある。
A  「召し上げ女房とセーラ服」では、    子分の市橋榮二郎の女房を強引に召し上げた。市橋は藤田五郎著では、(P211)ノレン兄弟と記載されており、このエピソードの記載はない。また、(P 217)五郎の子分として名前がない。このエピソードについて著者は、「…若いころから、すさんだ生活を送っていた川島親分には…」と辛らつな言葉・表現を使用している。
B  「猛者ぞろいの”血統”」では、瀬戸一家の歴史を簡潔にまとめる。五代目(中島勇二郎)の一子分に杉浦猶吉がいた。川島五郎はこの杉浦の配下であつた。杉浦はシマ内の争いから坂野寅次郎の子分稲垣佐一郎に襲われて創傷を負ったが…和解した。しかし、川島はおさまらず、…佐一郎を襲って重傷を負わせた。スジは絶対に通さずにはおかない典型的な博徒だった…。このエピソードも、藤田著にはない。
C  「不義に激昂した親分」では、川島親分の”女房殺し”は有名である。と冒頭から恐ろしいことを書く。川島五郎はある事件で入獄中、女房が小学校の教師とできていた、として叩き殺した、というエピソード。だが、川島の舎弟某が、川島の意をくんで殺害、刑務所に入ったとも伝えられている、とも書いている。藤田五郎著には、ない。この事件がどのころかは、はっきりしない。
この項の後半には、川島五郎の盟友・橋本寅次郎のことが記載されている。橋本は、川島の葬儀を仕切った。橋本は、本多仁介(関西の実業家親分)と結縁関係にあった。この葬儀には、本多会は身内多数を参列させ、香典百万円を贈った。瀬戸一家は香典かえしにクラウンデラックスを贈った。とCのエピソートは、藤田五郎著『東海の親分衆』には記載されていない。取材源が違っていたようだ。

― 猪野健治著『任侠…』1970年双葉社から刊行。取材は、1960年代後半、川島五郎逝去後8〜9年たっている。関係者も多く生存していた。同書は、瀬戸一家のチェックが入っていないようなので、エピソードとしての価値はある。更に検証する要はある。


川島五郎伝説・殉国七士の墓をつくった?



戦前から豊田市久保町に住んでいた川合幹夫さん(昭和4年1月1日生まれ)の話。三か根山の「殉国七士墓」を川島五郎がつくったので(竣工式)に参加する、と近所の関係者(女性)が話していた。(2012年8月取材)

  女性は喪服を着用しており、竣工が1960(昭和35)年なので川島五郎生存中。

見出し
 結論を先に言えば、「殉国七士墓」に関係する多くの資料の中には、川島五郎(羽田浚)の名前は、どこにもない。「殉国七士墓」が三か根山に建設された経緯、それにかかわった方々の名前などもはっきりしている。 資資料:早坂隆著『松井石根と南京事件の真実』2011文春新書

 記者は、さる9月28日、西尾市幡豆歴史民俗資料館に伴野館長を訪ね、三か根山と「殉国七士墓」について、お聞きした。また、その経緯をしるした資料のコピーをいただいた。 記者は、冒頭に記した結論の1角でも崩す資料を見つけることはできなかった。ならば、正式でなくても、黒幕としてかかわったのではないか。「火のないところに煙はたたない」というではないか、と言う人もいるかもしれぬ。しかし、黒幕とする直接的資料や証言も今のところない。  以上のことをしつかり押さえたうえで、川島伝説の不思議を次ぎに並べてみることにする。
1 1949年(昭和24)年、瀬戸一家と川島五郎は、団体等規制令によって暴力主義的団体として、占領軍・GHQの力を背景とする国家権力によって、瀬戸一家は強制解散させられ、川島五郎は暴力行為、強要、傷害、八つの罪名で起訴され、一審求刑八年、判決は二年六か月。検察が控訴、1950(昭和25)年4月の控訴審には、東京からわざわざ清瀬一郎弁護士がかけつけ、熱弁をふるい、それが功を奏したかはわからないが、判決では、罰金たったの千円でケリとなった。

         参考:福岡寿一著『続・遠いあし音』P36
  年号については、再調査する必要あり。

2 清瀬一郎弁護士が、アウトローの川島五郎の弁護人になったのはなぜか。清瀬一郎は衆議院議長としても高名だが、インターネットWikipediaで極東国際軍事裁判を検索すると、A級戦犯の弁護団副団長に清瀬一郎、林逸郎…とある。3項で記載するが、清瀬一郎の名前のすぐ後に林逸郎の名がある。極東国際軍事裁判の終結が1948(昭和23)年11月、その1年5け月後に、清瀬一郎弁護士は、川島五郎の弁護人になっている。清瀬一郎弁護士と川島五郎との接点は今のところ不明。

3 話は、敗戦直後の岡崎市。岡崎市は昭和20年、米空軍の猛爆撃により中心市街地は灰塵に帰した。戦災復興事業として、公営ギヤンブルが特別に許可され、岡崎競馬場が開設された。その後、競馬場より競艇場経営の方が利益が多いとして海のある蒲郡市に働きかけ、共同で競艇場を開設したが、利益の配分で両市は対立、裁判沙汰となった。蒲郡市側の弁護士に、2項で記した林悦郎弁護士が就任した。この林弁護士が、殉国七士の遺骨についての情報を旧幡豆町にもたらした。経緯は割愛するが、1960(昭和35)年、西三河三か根山頂に「殉国七士墓」が建立された。

4 往時、瀬戸一家は、公営ギヤンブルの裏社会を仕切っていた。具体的には、岡崎競馬場のノミ行為などを仕切っていた。川島親分の岡崎での仕事の大半は岡崎競馬場であった。そして、瀬戸一家は6代目川島五郎から7代目田中治六が継承したが1960(昭和35年3月21日)年逝去、(川島五郎の生前に亡くなる)。8代目の小林金治は、蒲郡市在住、公営ギヤンブルとしての蒲郡競艇場でのウラ社会の権益を継承した。往時の地方政財界では、瀬戸一家との癒着があった。川島五郎→小林金治が殉国七士墓のことを知らないはずはない。

 1〜4までを解くキイーは、「清瀬一郎と川島五郎」との関係解明にある、と思われる。川島五郎が超大物弁護士の清瀬一郎をどのようなコネで連れてきたのか。
 往時、戦後20年代から30年前後ころ、川島五郎は、愛知・岐阜・三重と静岡の西半分までを支配し、子分2000人を数える日本一の大親分であった。関係者に伝わっているエピソードでは、上京すると、東京駅には博徒の親分十数人出迎える、と五郎が言っていたという。「殉国七士墓」の建設資金の拠出者には、児玉 誉士夫の名前があるが、川島五郎(羽田浚)の名前はない。今、真実はヤミの中。川島伝説としては、あるようなないような、まさにこの種の伝説は今後も生きつづけるだろう。