第4回 日本一の親分がいた



 日本一の大親分が挙母(豊田市)にいた。その名前は川島五郎(瀬戸一家六代目)という。そのことを記載した資料がある。
資料2点。

 …瀬戸一家のナワバリの広いこと、子分の数の多いことでは川島五郎は東海の顔役どころか、おそらく全国一の大親分…川島一家の全盛期に代貸は六十名、子分も二千人…
  ○福岡寿一著
  『続遠い足音』1977年 豊田市立図書館蔵
 
…内部ではゴタゴタしても外部には一致結束して事にあたる「東海一家」は警察が把握しているだけでもおよそ7,000人を下らなかった。この中心となっているのが「瀬戸一家」「稲葉地一家」「平野屋一家」などノレンの古い博徒である。中でも事件当時は小林金次が総裁だった瀬戸一家は1991年まで「単一団体としては日本最大の費場所(賭場)を持つ」とされた大組織である。
  ○インターネット
  「ウィキペディア」『中津川抗争事件』
           【監修 羽田道俊・文 渡久地政司】

橋本寅次郎と土本豊


 藤田五郎著『東海の親分衆』の前書き「私の言葉」の次ぎの文章がある。
P4〜P5
  昭和49年7月取材に協力して下さった方々は、…土本豊(瀬戸一家大元老)…なかでも忘れられない方は、瀬戸一家の橋本寅次郎(瀬戸一家七代目副総裁、瀬戸親睦会長、
数年前稼業隠居)である。
 私(藤田五郎)は名古屋から瀬戸へ、…豊田に着き、橋本寅次郎の案内で瀬戸一家の代々親分の永眠される墓を訪れた。途中何度も小路に迷い、停まったり、走ったりの連続であった。その間(墓所)、橋本老の白髪が真黒になるまで藪蚊が襲った。…が、橋本老はむしろ私を気の毒がってくれた。
―藤田五郎は、橋本寅次郎、土本豊の両人から直接取材した。両者の肩書から、瀬戸一家の中枢取材である。ただ、記事については、両者の承認を得ていると推定してもよ いだろう。ということは、瀬戸一家にとって都合のわるいこと、暗部・恥部については、触れてはいない。
土本豊は本名である。
そのことについて少し説明をしたい。
『東海の親分衆』は、
昭和59年10月出版であるが、前書き(私の言葉)P4の5行目に「…2年程前から取材を開始し、週刊誌に連載したものを、加筆し、訂正したもの…」とあるので取材開始は昭和47年頃と推定。
土本豊については、『東海…』の文中には、「名を秘す」とか「土川豊(仮名)」で多くのエピソードを語っている。以下の引用は、「名を秘す」「土川豊(仮名)」をそのまま紹介する。

橋本寅次郎と川島親分

P99
  …昭和20年12月…橋本寅次郎(当時45歳)…そのころ橋本は豊田市(当時の地名挙母)に住んでいた。豊田の家へ兄弟分国サこと篠田国友が名古屋市東区代官町から尋ねてきた。橋本が兄分で篠田が弟分である。篠田は平野屋一家赤塚伝次こと千田徳次郎の子分である。…P100橋本寅次郎もまた平野屋一家の流れをくんでいる。橋本の妻が平野屋一家五代目今井安吉の娘である。
―全文を引用するといいのだが、スペースがない。
P100〜P105までは橋本寅次郎の出生と本名の経緯が詳しく記載されている。橋本寅次郎は名古屋の「平野屋一家に所属している」ことを確認して、ここでは、橋本が川島の客分となつた経緯を掲載する
。 P105
  (橋本寅次郎)…名古屋の家を昭和19年に焼け出され、石で追われる手負い犬のように、裸同様で…瀬戸へ引っ越した。(そこに川島五郎がいた)橋本寅次郎は渡世の仁義にしたがって瀬戸一家の総裁川島五郎のところへ挨拶に行った。そのとき川島は橋本にこう言った。「橋本、こんな時勢でなにもしてやれんが、わしのできることなら遠慮なくいってくれ」…頭領川島五郎の生活は裕福でなかった。むしろ金銭的には貧乏している川島が金をつくつてくれたので…
P106
 (橋本は)昭和20年春、豊田に小さいながら一軒家を借りて移り住んだ。〈やくざでいう瀬戸一家の世話内で川島の子分としての正式な盃をもらっていないのは、川島五郎は私の生涯たつた1人の親父さんですよ=橋本寅次郎談〉
―わざわざ解説しなくとも、川島・橋本の出会いとその後が簡潔に記載されている。

川島五郎の登場


 P106〜P112までは、川島五郎の出自・本名の羽田浚から川島五郎の名前が世に出るまで、が記載されている。全文を引用するとよいのだが、スペースがない。
…『川島五郎』の本名は羽田浚(ふかし)、明治22年11月12日に、挙母町字梅坪で生まれている。羽田浚(ふかし)と誰も呼ばず、「シュン」と呼んでいた。羽田浚は瀬戸一家五代目総裁勇次郎こと中島勇次郎(明治20年生)の総領子分杉浦猶吉(明治23年生)の子分であった。羽田浚が何時ごろ杉浦猶吉の子分の盃をもらったか。それはさだかではない。しかし、羽田浚が川島五郎と自分から名乗って呼ぶようになったのは大正7年4月16日である。
―大正7年4月16日とその後の「活劇」は、本文を読んでいただくことにする。簡単に要約する
 岐阜市にあった賭博場に警察の手入れがあった。軍役除隊後羽田浚が世話になっていた勝山幸次郎が客をのがして逮捕された。それを別の料理屋で酒をのんでいた羽田浚が調理場にあった出刃庖丁をつかんで走りだし、柳が瀬町あたりで警官に引かれていく勝山幸次郎を奪還した。驚く警官隊に向かって仁王立ちした羽田浚が大声で「おれが川島五郎だ」「おい、ぅぬら、おれたちを逃がして、おれの名前もわからなかったんじゃ、偉い奴らに申しわけが立つまい。よく覚えておけよ。オレが川島五郎だ!」。
―この事件で川島五郎は岐阜地方裁判所で1年6ケ月の刑、傷害罪1年を加え、長野監獄で刑を務めた。川島は、1921(大正9)年秋ころ出所。

P110
〈司法資料によると川島五郎は杉浦猶吉の子分なるも岐阜に於ける瀬戸一家加納派親分目玉の幸次こと勝山幸次郎の娘婿にして、岐阜県明知に住す、とあるが娘婿である事実は不明である〉。

土川豊と川島親分


P187 
 この賭場で二人の戦いざまを、当時十六歳の土川豊1899(明治32年生)(仮名)が見ていた。〈それは凄まじい喧嘩だった、と一言、土川談がある〉土川はみんなと一緒に警察に逮捕され、少年で金二十円也の罰金刑を受けている。土川豊は後日、川島五郎の総領の子分となる人である。
―冒頭に「土本豊(本名)・瀬戸一家大元老」と「仮名」の経緯を書いた。ここでは、原文どうりにしたが、土川豊の名前がここに初めて登場する。時代が前後するが、川島五郎と土川豊の出会いと「盃」のことを次ぎに記載する。
P210
  …(川島五郎は)懲役三年六カ月を長野監獄で務めあげ、出獄した。1921(大正10)年末と推定。
P211…監獄の正面の外には瀬戸一家の五代目総裁中島勇五郎のほか大幹部数名、川島の親分杉浦猶吉(五代目の総領子分)とその一門、…土田豊(土川の誤植)らの川島とはノレン兄弟分が全員、この放免迎えにきていた。
P214
  …土川が杉浦猶吉の子分として盃をもらったのは1918(大正7)年、川島五郎は裁判被告中。
P215 川島五郎の放免祝いが名古屋大曽根の〈十州楼〉で盛大に挙行された後、土川豊は四代目(隠居)桜井林蔵らに呼ばれ、…
P216
  ―若干のやりとりを経て、土川豊は杉浦猶吉の譲り若い衆として川島五郎の子分になった。
P217 
当時の模様を土川豊はこう語った。
「川島五郎だけの若い者は二人いたが、正式に盃をもらって真の子分となったのは私が最初だと思います。ですから川島について私が一番よく知っているともいえます」
―土川談の次ぎの行に
司法資料第121号、昭和2年版によると、川島五郎こと羽田浚は杉浦猶吉の手作りの若者なりしが1921(大正10)年中島勇五郎総裁に譲られ、譲り若者となり(以下略)
が挿入されている。
P217
川島五郎は土川豊に盃を下してから、子分として副島武一、榎本福松、小島末次郎、江口善次郎、滝正太郎、浅野清次、山内慶造、高田品次郎、吉田嘉三、八木兼光、杉山平三郎、本多小三郎、吉永長太郎、田中治六(後六代目総裁)と次々と盃を下している。

 

倉知鍬次郎(三河山)と川島五郎


 藤田五郎著『東海の親分衆』のP242〜P246までは、吉良一家=久米伝=三河山・倉知鍬次郎の縄張り(シマ)を川島五郎=瀬戸一家が「譲り受けた」(実は奪取した)経緯を記述している。
P240 
…川島五郎が監獄から娑婆に戻ったとき(1926(大正15)年ころ)与えられた費場所は岐阜県恵那郡明知町のみであった。…川島はこの明知町を費場所として使わず放置して草を生やしていた。しかし、自分の生まれた挙母町では博突を盛んにやっていた。挙母町は川島五郎の縄張り(シマ)でも、瀬戸一家の費場所でもなかった。吉良一家の近藤派四代目の久米伝の費場所であった。吉良一家は愛知県下西三河全域にわたり絶大な勢力を持っていた。…
P241 
…太田勘蔵の舎弟分に近藤弘明がいた。弘明はもと挙母藩の士族であるが、維新後、自ら十郎(「重郎」かもしれない)と称し勘蔵の舎弟分となり、明治十三年ごろ近藤派を起こし頭領となった。久米伝は大正8年9月に近藤派四代目の跡目についた。また久米伝は初代近藤弘明の末娘を嫁にしているところから、近藤派ばかりか吉良一家でもかなりの勢力があった。…久米伝は晩年になって眼が不自由であった。おまけに肺病を煩っていたため次第に勢力を失った。
P242 
 久米伝と川島五郎との会話。藤田五郎はここで「…掠奪者川島五郎…」の文字を使っている。勢力を失いつつある久米伝と新興勢力川島五郎を鮮明に対比して描いている。
P241 
…昭和2年夏、…「川島の親分、古瀬間の久米伝さんの賭場で平柴(芝の誤植)の鶴さんが大荒れに荒れていますよ」…「なにッ! 古瀬間で新見鶴吉が暴れとるだとー」
…挙母から高橋村古瀬間まで約6キロの道を一気に馬を走らせた。
平柴(平芝)の鶴こと新見鶴吉は伊藤一派三代目三河由(三河山)こと倉地鍬次郎(倉知)の子分である。三代目倉地の子分としては本多小三郎、清水清兵衛、新見鶴吉、山田国五郎、中根庫太、成瀬伝四郎、落合仁十、久米伝などで
―近藤派三代目が倉知鍬次郎で四代目が久米伝。

P244
 新見鶴吉は川島五郎の親分杉浦猶吉とは五分五分ののみわけの兄弟の仲。
P245 
 この新見鶴吉を川島五郎は、「悪小僧!思い知れ!」気合いもろとも脇差を振り下ろした。「アッ!」新見は太刀をかわしたが、肩から腕を斬られ、窓から外の土手に転げ落ちた。川島五郎は窓を乗り越えて外に飛び出て、新見に止めを刺そうとするのを数人の者が川島五郎を全身を抱きとめた。…新見鶴吉は、自分の非をあっさり認めて事件にしなかった。
P246 
…近藤一家の費場所で西加茂郡を本拠として挙母町、高橋村、保見村、東加茂郡の内下山村などの久米伝の支配所をそっくり、川島五郎にあらためて譲って、久米伝は隠居した。

―蛇足だが『東海の親分衆』P133に
…西加茂郡加納村で賭場をひらいて…三河国西加茂郡猿投山高町を親分より跡目にもらったとき、千足村、筋生村にて丁日半日の市…挙母部屋で多くの旅人…の一文がある。


【写真説明】写真は、1947(昭和22)年4月施行の愛知県会議員選挙で初当選した倉知桂太郎県議(48)を中心にした記念写真。倉知県議の右隣が川島五郎(58)、左隣が倉知鍬次郎=三河山(79)。両親分がガードを固めた貴重な写真。

豊田のタウン誌『ねーぶる』1983年最終号


P40〜P55
三河山=倉知鍬次郎を特集している。ここから「三河山=倉知鍬次郎と川島五郎」に関係する個所をビックアップする。
―三河山=倉知鍬次郎は、大正座(昭和劇場)を経営していた。宝集座(挙母劇場)を買い取った1917(大正6〜7)年ころ、大正座を川島五郎に譲渡した。
―川島五郎と三河山とは仲が良さそうで悪く、悪そうで良い、おかしな関係。川島五郎が牢屋に入っていた時、女房(川島五郎の)が三河山に預けられていた。
―倉知鍬次郎は近藤重郎(十郎かもしれぬ)の子分だった。宝集座を買って1917(大正6〜7)年ころ、博打とヤクザを辞めた。

(つづく)