写真・川島五郎親分



2012-8-9

日本一の大親分が挙母(豊田市)にいた


    不定期連載(1)

 日本一の大親分が挙母(豊田市)にいた。
その名前は「川島五郎」(瀬戸一家六代目)という。このように書くと、大ほら吹き、といわれかねない。
だが、そのように書いてある資料がある。

    …のちに「月刊中京」誌が川島五郎(本名羽田浚)のことをとりあげたことがあったが、出筆者は畔柳晋二で「五郎というのは『瀬戸一家』などというからせいぜい『東海一の親分』としか思われていないが、ほんとうは大前田英五郎以来の大親分なんだ」と私(福岡寿一)に話したことがあったが…

○ 福岡寿一著 『風塵録』p102 「はぐれ鴉一羽」「人斬り五郎」のこと
        豊田市立中央図書館蔵

 この大親分川島五郎のことを、80歳前後の方々にお聞きしたが、断片的に知っていても、また伝説は知っていても、資料のない「…げな…げな話し」ばかりであった。
川島五郎伝説にも尾ひれがついて面白いものも多いが、文章にすることはむつかしい。
 そこで、筆者は、最初に豊田市立中央図書館にある誰でもその気になれば見て、読むことのできる資料を提示、検討することからはじめる。読者からの資料提供を得つつ、「最後の任侠親分」までたどりつくよう努力したい。 (文責:渡久地政司)
 8月9日掲載
第1章 川島親分と昭和劇場
資料 『アート座のあゆみ』
   平成8年12月 発行
        豊田市中央図書館蔵
   同書P9「川島親分と昭和劇場」

第2章 川島五郎と本多鋼治の出会い
       福岡寿一編著
  資料 『最後の人―本多鋼治』
 昭和40年12月 発行
            豊田市中央図書館蔵
  同書P26~27を全文引用して解説。


 以下 不定期掲載予定

第3章  尾崎士郎と川島五郎…『人生
   劇場―望郷篇』、作品と映画。
     その出会い…
第4章  川島五郎とは…畔柳晋二、福岡寿一資料
第5章  川島五郎の碑とお墓…   豊田市と瀬戸市探索
第6章  川島五郎伝説…聞き書き 
終 章  最後の任侠親分…未完成 





経歴
川島五郎 (本名=羽田浚 はだ・ふかし)――明治22(1889)年11月12日西加茂郡梅坪村(現在 豊田市梅坪町)に生まれる。
昭和36年1月14日逝去、享年72歳。川島興業社社長。瀬戸一家六代目。墓は梅坪墓地(豊田市梅坪町4丁目)。
昭和18年5月、博徒・瀬戸一家6代目就任。川島興業社を創業、同社代表。昭和劇場及びアート座経営。
自ら建立した墓が瀬戸市川合町・春雨墓地と豊田市梅坪町・梅坪墓地の2ケ所にある。

第1章 川島親分と昭和劇場について

資料「川島親分と昭和劇場」
・ 『アート座のあゆみ』
   ・ (豊田市立中央図書館蔵)
P9から 一部を引用し説明と解説
・ 川島五郎(羽田浚)は、後日記載。
昭和劇場・川島興業社の社長であり、昔ながらの「任侠道」に生きた人でもあった。
その生き方は強烈で、エピソードは数限りないが、実直かつ豪快な人柄は人々を引き付けるに十分であった様だ。
また、(株)アート座の設立とその後の運営に無くてはならない人であったため、以下にその人間像とアート座の前身ともいえる昭和劇場の様子をエビソードを織りまぜながら触れておきたい。
・ 筆者は明確ではないが、関係者の推理では、K氏のようだ。
・ 昭和劇場― 現在の豊田市久保町4丁目1番地にあった。
元からあった大正座を引き継いで昭和○年○月設立された。
・ (株)アート座― 豊田市喜多町2丁目38にあった映画専門館。
昭和27年設立。
この項、後日記載。

終戦直後には日本の警察も自治力が薄れ、まさに混乱の時期であった。
昭和22年ごろは、経済的にも力を付けていた在日朝鮮人の人々と対立関係にあり、銃弾が飛ぶような物騒な事件もあった。
駅前には機動隊が常時巡回する一触即発の状態だったそうである。
昭和24年ごろになると、日本警察の力ではどうすることもできず、最終的にMPが中に入って事なきを得たのである。
・ 昭和22年、遊郭「観月境」で在日朝鮮人を銃器で射殺、実行犯は川島五郎の子分と伝承されている。

そのような川島親分は柔道・空手・剣道などの武道を心得た精悍な顔つきの大男。
加えて当時では非常に珍しく大きなインディアン(アメリカ製バイク)に乗る姿は、時には誰の目にも恐ろしく見えたことであろう。
しかし、自分の生まれた挙母の地と、その人達を大切にする気持ちは強く、厳しくも誠実な姿に、地元住民からは「正義の味方」として見られていたに違いない。

写真・五郎親分が乗っていた米軍払い下げの赤いバイク

・ この型のバイクに乗っていた。
? 1941・先進的な縦置きVツイン、シャフトドライブ、4速ギアの軍用モーターサイクル「841」の生産を開始。
? 1943・「陸・海軍 製品賞(Army-Navy Production Award)」を受賞

川島親分の朝はいつも早く、先ず劇場の便所掃除から始まる。
自分から率先して動くから、子分たちもやらざるを得ない。
当時、小学生であった石川康郎氏=(株)アート座取締役 が登校する頃には、清掃のキッチリ行き届いた劇場の玄関口から、子分たちに見送られてバイクで出掛けて行く姿が、毎朝必ず見られたそうである。
また、石川要作氏=(株)アート座初代社長・康郎氏の祖父 とも仲が良く、よく家に訪れたそうである。
緊張して小さくなっている康郎少年を見つけると、「お、居るか…」と言葉少なに頭を撫でたりして可愛がったりもした。
・ 中村寿一からの要請で石川要作が中心となって動いた。この項、後日記載。
・ 「アート」座の命名者は、中村寿一の息子・博、という伝説がある。
後日記載。

通りすがりの人々でも、困っていたら見逃せない人でもあった。
乞食が子供を連れてウロウロしていると、親分は走っていき「この金があるうちに宿に泊まり、食事を摂り、仕事を探せ。
そうでないとこの子も末代までも乞食になってしまう」とお金を渡したそうである。
自分の着ている服をも与えていることもしばしばあった。

・ このエピソードには、尾ひれが付き、この乞食の子孫が地元有力企業となっている、というもの。
この種の話は、伝説が生まれやすい。

冬の寒い日に劇場の周りを銃装備の機動隊に囲まれたこともある。
戦後、GHQによる日本の極道を警戒した「暴力団狩り」があり、川島組にも出動がかかったのである。
しかし、その包囲にも親分は慌てることなく悠然と丹前をまとい、県警の車に乗り込んでいったそうである。
もちろん悪いことをして逮捕されたわけでないから、すぐに戻ってこられた。
  ・ 猪野健治著『戦後任侠史の研究』P48  豊田市立中央図書館蔵
 …親分の単なる逮捕―検挙にとどまらず、勅令第101号(1946年2月公布)及び団体等規制令(1949年4月公布)を適用し、”暴力主義的団体”として強制解散させた。解散指定団体は、つぎの65団体である。(抜粋)
  [アウトロー団体]  瀬戸一家(羽田?)=愛知
 この資料は、国警本部刑事部捜査課の『暴力団犯罪の概況』(1952年1月)からひろいだしたもので…
・ 逮捕劇については、諸説ある。
この項、後日記載。

そんな親分の人物像に興味を持ち、戦後の混乱した社会状態と、弱きをたすけ強きをくじく任侠道とのからみを書こうと、「人生劇場」作家・尾崎士郎が川島家へ2週間の泊り込み取材に来たことがある。
「人生劇場・怒涛篇」は、親分がモデルになっているそうだ。
・ 尾崎士郎著『人生劇場』には、「怒涛篇」はなく「望郷篇」が正しい。同著「望郷篇」と川島親分については、後日記載。
昭和劇場をつくるきっかけとなったのは、昭和に入ってから、何か商売をした方が良いと警察や中村寿一氏に言われてからだ。
商売の内容には次ぎの3つが提案された。
(1)パチンコ屋 (2)芸者置屋 (3)劇場。
親分曰く、「パチンコは賭博と同じだから嫌だ。
芸者置屋は女の生き血を吸う商売だから嫌だ。一番良いのは、人々の娯楽になるものだ」ということで劇場をすることにした。
以前からあった大正座を地元有志の取持ちで受継ぐこととなり昭和劇場が誕生することとなった。
・ (1)パチンコ屋については、昭和初期には、パチンコは存在していない。
アート座設立と時期を一緒にした誤りではないか。
川島伝説に近いようだ。



親分持ち前の「めんどみの良さ」と「人脈の広さ」は地元の素人演芸会は勿論、当時の大物スターを昭和劇場の舞台に呼ぶことになる。
その顔ぶれは豪華極まりなく、挙母町民は熱狂した。岡晴夫・長谷川一夫・市川歌ヱ門・片岡千恵蔵etc…娯楽に飢えた挙母の人達が、昭和劇場に足をはこぶ。
劇場内に入りきれずに入り口から何十メールも列ができたり、2階がズリ落ちそうになることは日常茶飯事であった。
そんな川島親分も昭和36年、73歳で他界される。
葬儀には、全国から人が集まり、町中が喪服に身を包んだ人があっまった。
中には、当時の春日野親方も(参列)されたそうである。ある意味で「挙母庶民の味方」として、生前も町へ寄付などもし、任侠道を貫き通した川島親分である。
アート座設立のときも、確かに計画地に親分所有の土地が含まれていたが、それよりも、「川島親分に相談してみよう」という雰囲気が発起人メンバーにあり、むしろ、それは必然であったと言えるのではないだろうか。

・死亡記事  加茂タイムス紙
・記事掲載  昭和36年1月29日
この死亡記事については、後日掲載。
・ 1月15日、16日 また葬儀がおこなわれた2月4日の翌日の中部日本新聞三河版を丁寧にしらべたが、掲載記事はなかった。
・ お墓については、後日記載。
(続く) (文責:渡久地政司)


第2章 川島五郎と本多鋼治の出会い

○資料 [最後の人]― 本多鋼治回想
 本多秀治 「父の歩んだ道」 P26〜27

 頭を下げた「川島五郎」

 父が、県会議員に初当選[1]して間もない頃であったと思う。
 挙母に、川島五郎という博徒の親分がいた。
「泣く子も黙る」という言葉そのままの男であった。
 後年、彼自身[2]の口から、僕が直接聞いたのだが、彼の若い頃は「人斬り五郎」と呼ばれた由。
やると決心したら、必ず相手を斬ったという。
 そういう彼の下には、親分に恥じない向こう見ずの威勢のいい子分が何人となくいた。
「人斬り」ゆえに、若い頃の半生、或いはそれ以上をブタ箱で送った彼が、たまたまシャバへ出て来ると、本当にわれわれは恐れおののいて雨戸を閉めたものであった。
 その川島五郎が、弱冠三十四歳で県会議員になったばかりの父に盃をくれといったのである。
 或る夜、父達が、喜楽亭[3]という料理屋で飲んでいると、川島の子分が来て「五郎が別室にいるが、御挨拶がしたい」と申し入れた。
 若い父は、友人や芸者達がとめるのも聞かず「よし、案内しろ」と、一人で川島の部屋へ行った。
 そして、障子を開けてびっくりした。
 正面に川島が脇息にもたれて座り、左右に彼の忠実な子分共がずらりとならんでいた。
 一瞬、父はドキリとしたが、すすめられた真ん中の座布団に座った。
 晩年もそうであったが、華奢な金縁の眼鏡の奥の細い眼で、キラリと父を見据え[4]た彼は「川島五郎です。
このたびシャバへ出て来たのを機会に、土木建築をやりたいと思う。
ついては、今後いろいろとお世話になると思うので、お近づきの盃を受けてもらいたい」といった。
 「ちょつと待つてくれ」と、父はつとめて平然と言った。
 「やくざの足を洗った羽田浚(川島の本名)さんとなら喜んでおつき合いさせていただくが、川島五郎の盃はよう受けん」
 瞬間、居ならぶ子分共が、さッと殺気立つた。あるものは膝を立て、あるものは腕をまくる。
 「待て待て」川島は子分を制して「ごもっとも、羽田浚です」といって父に盃をさした。
 これは、僕[5]が小学校四、五年の頃の出来事だが、この話を父から聞いたのは、二十年くらい後のことである。
 それを話した時の父は、大分得意そうだった。
そのときも驚いたが、これを書きながら、その場の様子を想像しつつ、父の勇気のあったのは驚くばかりであった。


1 昭和2(1927)年9月、本多鋼治県議に初当選。
初対面は、昭和2〜3年ころか。
2 「彼自身」―― 川島五郎自身と解釈できる。
  川島五郎と本多秀治は面識があった。
3 「喜楽亭」―― 西町から移築。
小坂本町・豊田産業文化センター北西に現存。
4  「華奢な金縁の眼鏡の奥の細い眼で」――川島五郎の表情。 秀治は面識があった…。
5 「僕」―― 本多秀治本人